「機能」としての

人生(life)


少し前に、棟方志功の板画を目にする機会があり、その画の大らかな溢れ出るエネルギーに目を奪われた。今年は青森に行こうとチケットを取ったのだけれど、棟方志功が青森出身だと知り、行くのが更に楽しみになった。今は「板極道」という自伝を読んでいる。




自分が、「世界」の機能の一部だなあ、と思うことが比較的多くなった。
それは悪い意味ではなくて、単なる事実として、見方のひとつとして、である。




自分がこの世界のどんな機能を担っているのか、考えることがある。
それはおそらく、どんな状態であっても、なんらかの機能の一部を担っているのだけれど、同時に、有効な発露の仕方、というのもあるように思う。矢印が、あっち向きか、こっち向きか、の違い。もし、天の目と人の目に分けるのならば、前者から見ると「天の目」であり、後者が「人の目」なのだろうか。




自分⇄世界、の影響の流れだけで見てしまうと、それはそれでなめらか過ぎる世界となる。世界は揺れ動きながらも、均衡と保とうとする働きがあり、同時に、その均衡を破ろうとする動きもあり。それ全体を「均衡」と言ってしまえるかもしれないけれど、それさえも破ろうとする動きもあるかもしれない。




棟方志功は、天の目、人の目、どちらからみても、大きな影響を与えた人だろう。「有効な発露の仕方」がはっきりしすぎていて、「人の目」の迷う余地がないほどに。一方で、多数の人は、中間をいく(ように感じる)。実際は、中間ではないにしても。




話戻って「機能」のこと。
昔は、歯車、みたいなイメージがして嫌だった。だけれども、最近はまったく嫌ではない。嬉しいというわけでもない。そういうものだな、と。そうして世界は回っている。だけれど、どんな機能を果たすかの可能性は、けっこう無限だなと思っている。遠慮してちゃ、ダメなんだな。

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