粘着性と疑い深さ

日々是好日(dairy)


読書猿さんの『アイデア大全』という本を昨日買い、1つめの「バグリスト」というワークに取り組んでみたところ、いろいろと書き溜めているうちに、自分の粘着気質なところと疑い深さがあらわになり、「なんだかなあ」と思ってしまった。

すべておいて現れでるわけではなく、ある種の規則性のようなものがあるらしい。「敬意」とか「フェア」とかが、たぶん鍵になっていて、それが侵されたと私が感じるときに粘着性と疑い深さが発動し、おどろくべき調査力と合理的推論にて、「フェア」を取り戻そうとする。「敬意」については、何も対応はしていない様子。ただ憤っているだけ。

なので、粘着性も疑い深さも、一つの側面でしかないのはわかるのだけれど、自分の中のそんな部分を見たとき、なんだか「嫌だな」と思ってしまったのだ。何が嫌なのか、要素分解をして確認したところ、自分の「態度」のところだった。それも、態度全般ということではなく、「態度のタイミング(もしくは対象)」に限定されたものだった。そこが、「ありたい自分」とズレていたから、「嫌だな」と感じたのだと思う。

解決。よかった!(そんなに簡単なものでもないけれど)

ところで、この粘着性と疑い深さを下支えするものに、驚くべき「気づき力」があったりする。たとえば、この「気づき力」がなければ、粘着性と疑い深さが発動する機会さえ、もしかしたらないのかもしれない。「鈍感力」が愛でられた本もあったように記憶しているけれど、それももしかしたら、こんなところに要因があるのかもしれない。

たまに「なんで気づいちゃうんだろう」と思うことがある。自分が感情を揺さぶれらないものであれば、「気づかないふり」をしてやりすごす。ただ、全く気づかないものもあって、「その人が何を身に着けているか」は昔からまったく脳の中に入ってこない。初対面でさえ、会話をしながらきちんと全体に目を配って見ている人もいて、驚ろいてしまうけれど、私は基本的に意識して「見よう」と思わないと、目に入らない。興味がないのだと思う。

さて、粘着性と疑い深さ。
何かを調査したり、解明するときには役にたつ。これが発動したときの私は、ちょっとめんどくさい。自分が納得をするまで、結論はださない。「今、問題はおきていないんだから」というのは、受け入れられない(でも、たまに面倒になったときはこれもよしとする)。「表面化していない」だけなのであれば、今のうちにきちんと手を打たなければ、と思ってしまう。

飲茶さんの、『史上最強の哲学入門』の「アリストテレス」の章に3つの政治体制の話があり、それぞれ腐敗が進むとどうなるか、という記載があったのだけれど、その一つ、「民主制」が腐敗をすると「衆愚制」になる、という部分を読んで、なるほどなあ、と深く納得した。つまりわたしは、一般大衆の正義やら良心やら感情やらは、それはそれで大切にするものではあるけれど(でないとあとで大きなしっぺ返しがきてしまう)、ただ、それを直接的に全体の意思決定に結び付けてしまうことには慎重派なのだとと思う。これは「見えている部分」の違いも関係してくる。そしてそれは組織にも当てはまる。まあ、どの政治形態にも腐敗の方向性があるので、どの選択肢をとったとしても、都度都度手を入れていかないといけないだろうけれど。

そんな自分の思想的背景もあり、人間の自然な流れがもたらす「腐敗」というのに、人一倍敏感なのかもしれない。

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