「なんとかなる」は、なんとかなった

日々是好日(dairy)


最近、少し忙しかった(今もまだその渦中)。
昨日、ひとつのイベントが終わり、ややすっきりとした気持ちで今日を迎えている。明日、もうひとつのイベントがあり、それが終われば夏休み気分。

昨日は、「大人も子どもも、みんながセンセイになって、みんなが生徒になろう」という某市でのイベントに、知人たちと一緒に参加をしてきた。わたしも一コマ授業を受け持ち、ブッダについて語ってきた。

もともと、ボランティア、そして遊びイベントということもあり、素人センセイでいい認識だったので、それほどの準備をするつもりはなかったのだけれど、当日他の方の完成度の高い授業や資料をみて、「みんな、プロじゃないか!」「ここまで何もしていなくてよかったのか」という後悔が襲ってきた。授業時間は50分なのだけれど、PPTのページは16ページくらいで、しかも字がすごく大きくて(小さい文字での資料が嫌い)、こんなの読むだけだったら、30分?緊張して早口になったら、15分くらいで終わってしまうではないか!と、恐ろしくなる。しかも、持参したPCがプロジェクターに繋げるケーブルに合わず、いや、それは予想していたのだけれど、対策を何もすることなく、「なんとかなるだろう」「無理だったら板書で」などと気楽に考えていて、そしてやっぱり繋がらず、気持ちは焦る。「板書、できるの?」。だけれども、「板書をしたら時間稼ぎになるかも」というせこい考えもやってきたりして、まあいつもの、一人芝居をするなど。
その後、困っている私を見かねてか?、USBデータとPCを貸してくださる方がいて、投影しての授業ができたので、よかった。

さて授業。
あっさりとした概要の資料をつくっただけで、何を話すかは、本当に、一切何も考えずに臨んでしまい、どうなることかと思ったが、このライブ感(と呼んでいる)が、怖くて、実は好きだったりもするから始末が悪い。

直前に思いついた、「この前の瞑想体験のことを話そう」というアイデアがきっかけになり、いろいろと展開が思い浮かんでくる。同じ体験をされた方が教室にいらしたので、話してもらうといいかな、とか。
それでも、圧倒的に時間が余るのだ。どうしよう。まあ、早く終わってもいいらしいから終わろうか。

教室は、20名くらいが座れる部屋だっただろうか。もともと「3人くらいしかこないマニアックな授業をやろう」とイメージして授業のタイトルを決めたのだけれど、気が付けば知り合いではない生徒の方々がどんどんとやってきて、しかも、年配の方であったり、坊主頭(僧侶?)の方であったり、パーリ語の辞典を持ってきているツワモノであったり、私の心を乱すには枚挙に暇がないほどの人が集まり(←正しい日本語だろうか)、狙いは見事に外れたことを知ったのだった。みなさん、もの好きですね。お願いだから何も突っ込まないでね。そして教室はいっぱいになって、知り合いもぽつぽついらしたけれど、アウェー感満載な中で、一度も話す練習をしないまま、話し始めたのでした。

当時のインドの文化や思想的な背景に言及しつつ、ブッダが生まれてから悟りに至るまでの道のりと、初転法輪と次の説法くらいまでを説明したのだけれど、話し始めると関連する補足情報が浮かんできて、うろおぼえの知識をそのままに説明をしたり、「禅定」のところでは、この前行ってきた瞑想体験を語ったり、瞑想の種類やプロセスなどについて説明をするうちに、気が付けば時間が足りなくなっているような気がして、携帯をみてみたら、まさしく!!
後半の、転法輪経や無我相経で語られた内容のところは、ほぼすっ飛ばしてしまいました。無我とか無常が、1分で語り終えられるなんて・・・(つまり語れていない)。ごめん、ブッダ先生。

反省点は多々あるのだけれど、アウトプットするってやっぱり大切、人に伝える経験って学びになるなあ、などと思ったのでした。
またどこかで話したくなってしまった。。。そうすると、また勉強がしたくなり、ああ、ループ。今は羊毛フェルトに力を傾ける時期なのに。

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