『野の医者は笑う』東畑開人

日々是好日(dairy)


あー、久しぶりに本を読んでこれだけ笑った。




『野の医者は笑う』

最近、左脳を使いすぎだなと思っていて、右脳優位に戻るべく、
と思っていたけれど、ついつい読んでしまった。




もう数ヶ月前に、職場の元上司でわたしのことをよくわかっているだろうSさんから連絡があり、この本のご紹介があった。読んで私のことを思い出したそうだ。




やっと読めた。10ページくらい読んでみて、なぜSさんが私のことを思い出したのか、なんとなく理解できた。読む前は、私もインフォーマルなものにいろいろと手を出すから、つまりテーマ的な意味でかな?と思っていたのだけれど、東畑さんの思考の傾向や葛藤とわたしのそれがけっこう似ているような気もして、そういった意味で思い出したのかもしれない。




東畑さんは、本の中で「近代医学の外側で活動している治療者たち」を「野の医者」と呼び、その研究を通じて「心の治療」や「臨床心理士」の存在について、再度見直しを行おうという試み。ご自身の物語も絡ませて軽妙に語られており、秀逸。でも、とても優秀な方だな。これだけきちんと整理をして言語化し、しかもお話としても楽しく読ませ、なかなか描きづらい内容だろうに。内からも外からも多視点で見ておられる。様々なエビデンスのないセラピーや医療が搭乗し、中には「これは・・・」と思うものもあるけれど、東畑さんはまっすぐにその中に入っていき、当事者となって体験をし、感じたことをまとめておられ、読んでいてとても興味深かった。




個人的に、「こころ」に純粋に興味があったのは、幼少期から学生時代、30〜35歳くらいまでだろうな、と思う。家族関係や生育歴とはあまり関係なく、そもそもの気質がこころに対して敏感だった。特に「悲しみ」や「苦しみ」の感情に対して。たとえば小学生のとき、クラスのある子がいつもどおり笑顔で過ごしていたとしても、表情をみた瞬間に、虫の知らせのような何かがやってきて、気になる状態が続く。それに耐えきれなくなって何かあったのかと話しかけると、大抵何か落ち込むことや悲しい出来事がでてくる。今思い返すと、たぶん小さな表情の変化なりをよみとっているのだろうと思うけれど。TVでも映画でも、「悲しみ」「死」があるとダメで、共感しすぎてしまってひどいときは物が食べれず、点滴を打つこともあった。あるタイミングでさすがにまずいと思い、「もう人の気持ちを入れない」と決めたら、びっくりするくらい入ってこなくなった。決意の力ってすごい。中学、高校では、河合隼雄さんの本は好きでよく読んでいた。もちろんユングも。社会にでて、普通の?生活が続く。30歳くらいのときに、仕事があまりおもしろくない状態になって、ここから5年くらい、こころの旅へ出たようにも思う。とりあえず、実際の旅にもたくさん出たし、興味があるものへは片っ端から出かけた。それまで、「占い」についてはお金を払うことは馬鹿げていると思っていたのだけれど、あるきっかけで西洋占星術に興味が生まれ、自分のホロスコープと自分自身に、天体の運行と日々起きる現象に本当に相関関係があるのかを確認する作業に、楽しく没頭していた。でも、3年くらいたつと、「こういう感じか」というのが自分の中でまとまったので、次第に遠ざかっていった。




こころって何だろう。どう扱うのがいいのか。今、そういうことへの興味は薄れていっている。こころ、感情、わたし、意志、作用、連鎖、身体、認知、そういうことに対して。




こころといえば、好きなエピソードがあって、真言密教の開祖、空海の、愛弟子が亡くなったときの言葉。




哀しい哉 哀しい哉
哀れが中の哀れなり
悲しい哉 悲しい哉
悲しみが中の悲しみなり
哀しい哉 哀しい哉 復(また)哀しい哉
悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉




悟りを開いていただろう空海の言葉だと思うと、そうなのだな、と思う。
そして晩年の集大成『秘蔵宝鑰』では、以下の名文。




三界の狂人は狂せることを知らず 四生の盲者は盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて生(しょう)の始めに暗く 死に死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し




このようにして、テーマは移っていくのでした。
ああ、でも循環しているのかもしれない。

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