捨てたい欲求と所有の便利さ

日々是好日(dairy)


料理はほとんどしないのに、
そうじは好きだったりする。
部屋の片付けも好きで、
職場では、公認の整理整頓担当でもある。




自分の部屋は、当たり前だけれど自分好みに整えられていて
置いてあるものは、そんなに少ないわけでもないけれど、
多すぎることもないと思う。




数か月に一度、大整理整頓日があるのだけれど、
「いつか使うかも」と思う資料や服を捨てたとき、
一瞬、すごい興奮がやってくる。




「捨てる」という行為自体を、愛しているような気もする。
もう少し拡大していうと、「なにも無い」という状態を
愛しているのかもしれない。




いつか仕事の役に立つかも、という書類(つまり知識)を捨てるとき
けっこうなお金を出して買った衣類を捨てるとき
「懐かしさ」だけになってしまった思い出の品を捨てるとき
仕事や職場を離れるとき
人と別れるとき




自分の中にある純粋でないこだわりを
場合によっては、純粋なこだわりさえも、
思い切って手放すことと言い表せるかもしれないし、
実際にそんな感覚ではあるのだけれど、
それとはべつに、どうも「何もない」こと自体に対する
圧倒的な心地よさであったり、愛する気持ちがあるようにも思う。




それは私の死ぬ場面にも表れていて、
骨をすべて打ち砕いて、できるならば散骨で、
あとに何も残らないようにしたいという思いが、
小さい頃からあったりする。




「風」になりたい、という、冗談だけれども
半分本気の思いが、小さな頃からあり、
散骨になれば、風になって、
どこにでもいけるような気がするからかもしれない。
今でも、風が吹くと誰かに、何かに触れたような気がして、
幸せな気持ちになる。
「ゼロになる」というのは、私の中では、
枷がなくなる、という感覚らしい。




でも、生きていくとき、ゼロにはなることはできない。
どこかに足をつけるし、誰かと離れても、誰かとの出会いがある。
知識も吸収したいという欲求があるし、
新しいことに取り組みたいという欲求もある。
持っていると便利なものもあって、
「捨てて」しまったところで、また何か新たなものが入ってくるのだ。




そしてまた、枷も嫌いでもない。
このあたりのバランスをとるのが、難しいな、と思う。

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