いつ頃からだろうか。
一番最初に気が付いたのは、引っ越しのときだったような気がする。
必要最小限のものだけをもって引っ越しをしたとき。
次は、仕事を辞めたときだったと思う。所属するものがない不安定感と気持ち良さ。
先日、椅子や衣装ケース等、大型ごみをいくつか処分した。もうずっと一部が壊れていて、処分する必要性を感じていたのだけれど、面倒で、後伸ばしにしていた。だけど、椅子の足のコロコロがどんどん壊れていき、3つ壊れると、どんなに工夫して座っても、座れなくなってしまったのを機に、重い腰を上げることになった。
いざ処分してみると、部屋がかなりすっきりとした。新しいものを購入しようかとも思ったけれど、買えばまた、「重たい」荷物が増えるばかり。部屋には元々、「座りにくい椅子」「かご」があったので、新しいものを極力買わずに、生活に不便が生じないよう考えてみた。
結果、100均でフックを1セットと、カゴを1つ買うだけで、マルとなった。
「座りにくい椅子」には、やっぱり座らなくなったので、床に座るほうの机で作業をするようになった。
洋服は、いくつかのカゴに入れて、置いたり、掛けたり、下げたりして、その置き方が、少し可愛いとさえ思ってしまった。
本もどんどん処分しているが、なかなか高値で売れるので有難い。でも、これに関しては、新しいものも買ってしまうので、一進一退。
次の候補は、なんとベッドである。ネジが一本ずつ無くなっていくのだけれど、いったいいつまでもつのだろう。壊れたら、また買うのだろうか(これは買ったほうがいい気がする)。
先日、「芭蕉」の講座に参加をし、何の俳文だったか忘れたけれど、蓑ひとつの自分になったことについての記載があった。芭蕉も、旅を棲み家とし、身にもてるもの以外は、もたない方向へ進んでいった。それを読んでいるとき、とても羨ましく思う自分がいた。西行、芭蕉には、ある共通の「何か」がある。そしてそれを、他の人の中にも見つけることがある。それが何かは分からないけれど、直感的に「わかる」のだ。そして、なぜが全員男性である。女性にも、ある種の「重なり」を感じる人もいるのだけれど、恋焦がれるほどではない。この違いはいったい何なんだろう。
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