ブッダの仏教と大乗仏教

人生(life)

空海をきっかけに、密教系の大学院に入るものの、
初期仏教にシンパシーを感じ、
今、もっぱら興味があるのは
ブッダその人に近い初期仏教。

ブッダの仏教(初期仏教)と大乗仏教、
どちらも、それぞれに存在意義があると思っていて、
ですが、どちらに惹かれるかは、明らかに本人の性質が
関係しているだろうな、と感じています。

わたしは、明らかに初期仏教。

ブッダの人生を見てみれば、
そこに私の抱えるテーマがあり、
だから、惹かれるのだろうな、と感じています。

ブッダは、恵まれた環境で生まれ、育ちましたが、
あるとき人生に疑問をもち、実存的な苦悩を抱え、
妻子を残して出家をします。
自分の中にある執着を断ち切って。

そして、道を求め、師を求めましたが、
ブッダの納得がいく満足はなく、
さらに、ひとり道を歩んでいきます。

最終的には、有名なスジャータのエピソードにもあるように、
苦行も捨て、「悟りを開くまではここから動かない」と決め、
瞑想に入ります。
そして、自分の過去世を見たり、輪廻の因果をみたり、
悪魔(自身の心の中にあるもの。メタファー)からの攻撃も退け
ついに、涅槃寂静の境地を得ます。

悟りを味わったあと、その悟りの内容を広めていくことに
一度は逡巡したものの(理解できる人はおらず、疲労が生まれる)、
梵天勧請を受け(これも、自身の心の中の何かのメタファーだろうかと)
世の中を見渡し、確かに理解できる人もいることを確認し、
教えを説いていくことにしました。

以降の人生は、いわゆる「慈悲」として表現をして
よい人生だと思います。

ただ、ポイントは、まずは自身の問題を解決するため、
ひたすらに自身の修行に身を投じたこと。
自身の問題は解決し、心残すものもなくなった状態で、
はじめて、残りの人生を、理解し、救われる可能性がある人たちのために、
説いていくことを選んだ人生だといえると思います。

一方、大乗仏教では、慈悲的行為が、行の中心ともなっています。
慈悲。利他。
そのような行為を、修行として取り組むことで、
悟りへの道を歩んでいく、といえ、
利他を通じて、自利、求道の道を歩んでいく人生だともいえると思います。

大きくみれば、両者とも最終的には同じともみえますが、
プロセスは明らかに違っていて、
これのどちらに親近感を感じるかは、その人自身の性質が
大きく関係しているような気がします。

利他行為へのこだわりや執着がある人は、
利他からはいっていくだろうし、
自分自身の疑問へのこだわりが強いひとは、
自利から入っていくしか、ないだろうとも思うのです。

そんなことを考えると、
私が初期仏教に惹かれるのは当然で、
たとえば、『スッタニパータ』などを読んでいると、
犀の角などを読んでいると、
心臓がつかまれるような気持ちになるのは、
2500年前(だったか?)のブッダが
その当時に抱えた疑問や想いに、
何か重なるものを見出しているからなのだろうな、と思っています。

西行然り、鴨長明然り、という気がします。
松尾芭蕉はどうだろう。

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