今日、2回目の哲学カフェに行ってきた。
私の「哲学カフェ」の知識といえば、本2冊と、今日を含めた2回のカフェ参加、あとはネットでの情報となる。
今日のテーマは、『「らしさ」って何?』だったのだけれど、前回ノートを持って行かずに頭の中が拡散してしまったので、今日はノートとペンを持参した。おかげで、前半はそれなりに考えることができた。(後半は、また拡散した・・・)
意見交換は、特に道筋がつけられるわけでもなく、進んでいく。最初に口火を切った人の意見がとっかかりとなって、それに連なる形として、または全く別の切り口から、意見が重ねられていく。
自分からみた「らしさ」と他者からみた「らしさ」。属性に付与される「らしさ」とそこから引き起こされる葛藤。集合体の共通項からイメージされる「らしさ」と個別性における「らしさ」。「らしさ」の言語的意味や、歴史的変遷。多様性との関係性。「らしさ」=幸せといえるのか。「らしさ」と経済力との関係。「らしさ」は永続的か。真の「らしさ」とはあるのか。「らしく」が生まれるその直前にあるプロセスは何か、など。
2時間があっという間に過ぎていく。普段、そこまで真剣に「らしさ」について考えるわけもなく、こういった機会があるからこそ、考えることができるのだろう。
集まっている方は年代も様々で、いろいろな角度からの意見がでてくる。いま、哲学カフェはちょっとしたブームになっているのかもしれないのだけれど、それにしても参加者の多さと多様さに、驚いた。
人はなぜ哲学カフェに行くのだろう。行き続けるのだろう。
確かに他者の意見を聞くことは勉強になるし、自分では思いつかない切り口からの意見や質問がくるので、多面的に考えるきっかけにはなる。ただその後、「考えを深めていく」「整理していく」「自分なりの考えをまとめていく」という場面になると、個人的には「様々な人が数多くいる」というのは、少しやりにくい。「ここでもう少し考えてみたいな」と思うところでも、どんどんと次へ議論が流れていってしまう。そのうち、自分がまとめたいとおもっていたことも忘れてしまう。ただ、自分が考えたことに対するフィードバックがもらえるのは有難い。一人ではそれはできない。できれば、個別に考える時間と、それをシェアする時間が交互にあればな、とも思う。
とはいえ日常の生活のなかで、このような時間はとりづらいし、それに付き合ってくれるひとも希なので、興味や志向を同じくする人たちであれば、気がねなく意見を重ねることができるこの時間は、貴重な時間だった。また機会があれば、行ってみたい。
(個人的な備忘録)
「らしさ」
「それを形作るもの」と認識されているもの。
認識している主体は、社会の集合的なイメージかもしれないし、自己の認知によるものかもしれない。
また、「それ以外」のものに対する、個別性、独自性を表すものでもある。
集合的なイメージの「らしさ」は、あるひとつの「モデル」機能を果たすこともあり、場合によっては自分の成長を促進させる旗印のようにもなり、場合によっては「それとは違う自分」との間で葛藤を生じさせることもある。
自己認知による「自分らしさ」は、場合によっては自己の基盤を安定させ、人生を歩みやすくする要素もあるが、場合によっては自分自身に枷をかける要素ともなる。
「らしさ」が固定的、永続的なものとして存在しているのかどうかは、(少なくとも私には)わからない。
今は、集合的なイメージの「らしさ」よりも、個別性、独自性としての「らしさ」主流の時代だといえるだろう。この先にはいったいどんな「らしさ」の時代がやってくるのか。揺り戻しがあるような気もするけれど。
(事前に読んだ2冊の本はこちら)
①「哲学カフェのつくり方(シリーズ臨床哲学)」
②「哲学カフェ!」
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