瞑想(meditation)

瞑想コースから戻ってきて

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久しぶりの投稿。
最近、なんとなく書く気がおきなくて、書きたいこともなかったので、そのままにしておいた。

先日3日間(実質4日)瞑想コースに行ってきて、昨日戻ってきた。上座部仏教で引き継がれている瞑想のコースだったけれど、前回がはじめての参加で10日間のコース、そして今回は、「古い生徒」向けのショートコース。

「0日目」は、お蕎麦をいただいた後オリエンテーションがあり、コースがはじまっていく。夜の瞑想はアーナパーナで、イントロダクションの講話がある。1日目と2日目の朝の瞑想までアーナパーナで、その後ヴィパッサナーになっていく、その境目はくっきりとしたものでなく、アーナパーナで呼吸を感じる瞑想をする中で、少しずつヴィパッサナーの要素も入ってきて、2日目のお昼から全身のヴィパッサナー瞑想がはじまっていく。

今回、「古い生徒」(2回目以上の人たち)に対象が限定されていることもあり、みなさん勝手知ったるからか、佇まいも動き方も、すごく自然だった。私自身も前回感じたような心の中の慌ただしさはなく、のんびりくつろいでいたように思う。

短いコースだったので、あっという間に終わってしまった感じだけれど、言ってよかった。1日のカリキュラムは毎回一緒なのだけれど、前回そこまで意識を払わなかった講話が、今回けっこう頭の中に入ってきて、腑に落ちることも多かった。

瞑想は、よき指導者に出会う必要があると言われるけれど、それは瞑想の実践を重ねる中で誤解に基づく方向性の誤りを正す目的もあるのかな、と思う。例えば今回のヴィパッサナー瞑想では、前回よりも身体的体験のインパクトはなかった。前回は、頭も痛くなるし、身体から熱もでるし、しびれも驚くほどだったし、なんだか深い(?)感覚もあったので、敢えて言うなら「ドラマティック」だった。もちろん、「体験に執着してはいけない。ただ観察する」ということを、口を酸っぱくして言われるので、気を付けてはいるのだけれど、今回、それほど身体的にインパクトは、なくはないけれども、前回よりは弱く、柔らかい感じだったので、ヴィパッサナーの目的に基づき、じっくりと身体感覚を観ることができたように思う。指導の言葉の中で印象的だったのは、粗雑な感覚を嫌悪することなく、心地よい感覚を渇望することなく、粗雑な感覚も、心地よい感覚も、そのどちらでもない感覚も、感覚を感じることも、感じないことも、すべてに差をつけることなく、ただそれを観なさい、というものだった。今回、その言葉の意味が、意図することがよくわかり、「なるほどなあ」と体験的に合点がいった。1つの感覚に必要以上に長期滞在せず、ただその性質を観る。そうすると、生まれ、消え、生まれ、消え、ただそれだけが繰り返されることに気づくということだったが、これについては頭では分かるし、大きな流れでは感じることができるけれども、もう少し微細に感じられるような気もするので、今後の実践時に引き続き。四無量心の中で特に最後の「捨」は難しいと聞いていたが、おそらくこのことなんじゃないだろうか。執着もせず、無関心でもなく。本来は、こういうふうに記録に書くことも奨励されない。書くことでこの体験への執着が強まるからだろう。でも書いておきたかった。書いたら忘れよう。

この、すべての感覚に等しく注意を向ける、そしてそれらをそのまま観る、というのは、思う以上に難しいのではないかと思う。私たちの反応は、かなり早い。「動く」瞬間の躍動のようなものは、注意を向けると何となくつかめるときもあるけれど、こちらもこれから。瞑想時はまだやりやすいとしても、日常でこれをするとなると十分に注意深くしていないと難しいだろう。今はまだ帰ってきたばかりだからか少し意識を向けると感じることはできるのだけれど、これから段々従来の日常に戻ってしまうかもしれない。ここは強い意思が必要。昨日も自宅に戻ってきてから、片付けやら食事やら雑務をしていたのだけれど、そしてそれを(日頃よりは意識的だとしても)無意識的にしていることに気づいたとき、ちょっと怖くなった。

そんな中で思ったのは、選択肢はできるだけ少ないほうがいいのではないか、ということだ。今までも別の流れで似たようなことを思ったことはあるけれど、今回は瞑想コースでの生活と日常との違いはなんなのだろうと思ったときに、選択肢の少なさ、があるように思った。やることもそう。情報ツールの入力、出力もそう。本当に必要なんだろうか。なぜ私は、携帯で漫画を読んでいるんだろう、など。

ということで、コース時に頭に思い浮かんでいた部屋の整理整頓をすることにした。大型の家具や使用していないパソコンなど、できるだけ廃棄しようと思う。パソコンなどは、今は使っていないものだったのでまだいいのだけれど、家具は愛着や利便性があるものもあり、あれだけ強い意思だったにも関わらず、自宅に戻り、2度ほど考え直してしまった。でも、今日改めて思い、処分することにした。愛着や利便性があるものについて、「取っておいたほうがいいんじゃないか」と思う気持ちに是も非もないと思うけれど、今回部屋の情報銅線をできるだけシンプルにする、という目的からみると、必要に思う。

でも、文明の利器をすべて放棄する必要はなく、「必要なものを最小限で」保持しておこうと思ったのだった。どうなるか。

今日の朝は、再びウ・ジョーティカ師の「自由への旅」の前半を読み直した。前回よりもすっと頭に入ってくるではないか。言わんとしていることも理解できる部分が多い。そして、「8(エイト)マインドフルネスステップス」も途中まで読み返している。今まで「八正道」にはなんとなく注意が向かなかったのだけれど、今回、八正道や戒律は思う以上に重要なのではないかと思った。よくよく考えれば、「涅槃へ至る道」なので重要なのは当たり前なのだけれど、なんとなく避けて通りたかったのだ。これは、なんとなくだけれど、最初に書いた「選択肢の問題」とも繋がっているように感じた。












他にも、姿勢のことや食事のこと、リラックスしたいけれどいつのまにか緊張している部分があること、慈悲(メッター)について自分の反応的特徴についての振り返り等、思うところはあったのだけれど、あまり書きすぎると体験への執着が強まるので、ここで終わりにする。

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