今日、修士論文の口頭試問が終わった。
案内のとおり、90分だった。
正確には87分。
副査は、民俗学・歴史学の先生と、日本古典文学の先生。
さてまあ、いろいろとあったのだけれど。
会場についたら、女性の方が先生と話しておられ、かなり深刻。控え室で少しお話をすると、「笑顔が見られてよかったわ。絶対合格してね」と、深刻な表情で言い、帰っていかれた。背景がよくわからなかったけれど、きっととても厳しい時間を過ごされたのだろうな。呑気な笑顔は人に癒しを持たらすのだろう。そして私は、きたるべき時がどんなときかのイメージができた。待合室で最後の10分くらいは、外の景色を眺めていた。木々、雪、雨。
そしてはじまる。主査の先生の質問に、2つほど、曖昧な、あるいは間違った理解の回答をしてしまい、あーあ、やっちゃったな、と。一つはフロイトに始まる精神分析的アプローチがどのような変遷をたどり、なぜ、ナラティブ・アプローチが要請されたのか。二つめは、「感情労働」の説明について。どちらも、先生との面談の中で何度がテーマに挙がっていて、説明をしてくださっていたのに、自分の中に落とし込めていなかった・・・。
そして、前者のテーマが、副査の先生とのやり取りの中で見事に現象として浮かび上がり、終わった後に主査の先生に、「ね、知らない人からみるとこうなるから、精神分析からの流れの説明が必要だよね」と。いや、ほんとそうだわ。やっとわかった。こういうことか。
他にもいろいろとあったが、無事終了。終わったあと、すぐバス停に向かう。頭の中はぼーっとしていて、「国破れて山河あり」という言葉が思い浮かんだ。なぜ思い浮かんだのかよくわからなかったけれど、たぶん、作り上げた自分のいろいろなものが跡形もなくなくなり、ただ自然が現す何か、だけが残っていたのだろう。バスに長時間揺られ、来るときもだったけれどバス酔いし、ぼっーっとしたままバス、電車、乗り換えの旅へ。
結果についてはわからない。どうも少ししか不合格にならないようだけれど、自分の相対的な評価については、まったく未知。そこにあったのは主観だけ。
わたしは、まったくもって打ち砕かれていた。ここまでコテンパンに、木っ端微塵に打ち砕かれる経験は、大人になると早々ない。築き上げたいろんなものも、確保したいいろいろなものも、すべてが無に帰す。自分の存在が、どれだけ小さく、むしろ無であるという事実を目の当たりにしたような。
そしてそれは、しばらくすると心地よさも伴ってきた。「打ち砕かれる」ことは、もしかしたら、とても貴重なことなのかもしれない。圧倒的な自己破壊(ほんとはそんな大げさな話じゃない)。
ペーパー試験なら、終わったら「わーい!」って感じだけれど、面接試験ってやつは、すごくくる。
とはいえ、これを書いたらひと段落。日常に戻ろう。
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