『ブラーファ少女とクローラガール』

読書記録
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昨年末、『まち̚カドかがく』という同人誌が販売された。「いんよう!」というポッドキャストがあり、そこから派生した同人誌だ。

常日頃、私は同人誌を読まない。そこに明確な理由はなく、単に読む動機がなかったからだろうと思う。ただ今回は少し事情が違った。

主催者の方の一人に、「ようさん」という方がおられる。私がようさんのことで思い出せる一番古い記憶はnoteの記事だ。もう何年前だったか、おそらくnoteを辿れば思い出せるのかもしれないけれど、はっきりとは覚えていない。当初のようさんが書く記事は、ご自身の研究や興味の対象について書かれていることもあったが、ご自身のことを書かれていることも多かった。私は「その人」のことを書いている文章が好きなので、だからなのかよく読んでいた。読んで苦笑をしてしまうような、たまに胸が少し痛くなるような、そんな内容だったように思う。

そこから時は流れ、いったいどっちが先なのかもあやふやな記憶だけれども、今は「いんよう!」というポッドキャストも(たぶん)人気コンテンツとなっている。最近はサンキュー・タツオさんという方も準レギュラーという形で加わられ、個人的には楽しみが増している。

そんなようさんが、これまたいつのことだったか思い出せないのだけれど、どこかのタイミングで「小説を書きました」と言い出された。正直、「いったい何を…」という感じではあったけれど、せっかくようさんが書かれた物語だし、読まねばならぬだろうとその時アップされていた第一章を読んでみたのだけれど、はっきり言えばあまりよく分からなくて、どう感想を伝えたらいいのか苦慮した記憶がある。だいたい、タイトルからしてよく分からないし、人の名前の付け方も、使う言葉や人物のテイストや表現の仕方も私の馴染みからは対極にあるように思え、読み始めてすぐに「これは私にはわかんないだろうな」と思ってしまったのだ。

更に時は流れ、今回の同人誌が販売された。そして私は取り寄せた。
読む前は怖さがあった。そのときの勢い(?のようなもの)で購入したけれど、果たして大丈夫なのだろうか。基本的に嘘はつけないし、つきたくもない。もちろん嘘の定義も様々だし、言葉の焦点を意図的にずらすことで、自他に対して嘘をつかずに伝えることもできる。ただ、それでもやはり、ようさんには伝わってしまうと思うのだ(だからといってそれを拡大解釈される方ではないだろうことは分かっていても)。そして率直に意見を伝えられるほどの心持ちは、まだ私にはもてていない。

届いた本をめくってみる。ようさんの文章が約半分を占めていた。大作だ。これは気合を入れて読まねばならぬ分量だ。そして上掲した怖さも相まって最後に回すことにした。1日1つずつ読んでいき、ようさんのパートには2日間を当てていたので、年が明け、ゆっくりできる2日から読み始めた。そしてそう、数ページを読んだあたりで心配が杞憂だったことが分かった。「なんということだ」という想いが何度も立ち現れてきた。最初はツイッターで感想をつぶやこうと思っていたけれど、早々に諦めた。

最初は戸惑いが生まれた。入り口の物語が私の記憶とは異なっていたのだ。自分の記憶が改編されているのか、実際に改編されたのか、そんなことを思いながら読み進める。次第に物語の世界に引き込まれていく。すいすいと読める文章ではなく、じっくりと、行きつ戻りつしながら時間をかけて読んでいく。たまに同じページを開いてぼーっとしたり。登場人物の名前の馴染みの無さ感は相変わらずだったので、何度か最初の人物ページに戻りながら「誰が誰で」という確認作業を行った。まるで海外の翻訳ミステリを読むときのようだ。

情景の描き方。それは心象風景も景色の描写も、ここまで広く、細やかに、比喩や表現を使って書けるのかと驚いた。それはもしかしたら私の「科学者」というものへのバイアスが一因となっているかもしれない。だけれども、ようさんがアニメを評するときの言葉を思い出し、さもありなん、と思う。そして文章のリズムもひっかかりがなく、何度推敲を重ねるとこうなるのだろうか、もともとリズムが内包されている方なのだろうか、という想いが湧く。

そしてストーリーについても。もちろんようさんの一番の強みであろう科学的なこと(?)もふんだんに織り込まれていて、それが新鮮に、理解できる世界として描かれ、「科学的なもの」に馴染みのない私でも9割方イメージすることができたけれど、驚いたのは人物を通じて繰り広げられる物語の人間的な側面であり、人物の描き分けだった。ただこれも、ようさんのブログを「良い」と思った最初のきっかけを思い出すと、当然のことのようにも思える。

ようさんの描くものには透明感を感じる。その世界も、人物も。それは対象とある程度距離を保っているからかもしれないし、そもそものものの見方がそう感じさせるのかもしれないし、私自身の何かが影響をしているのかもしれない。

好きだった場面がいくつかある。例えばエイミーの独立性を認めるよう悠木博士に打診する際のやりとりや博士の人物像の描き方などは、人物たちの科学や科学者というものへスタンスが明確に描かれていて「いいな」と思ってしまったし、他にも、クローンの遺伝の説明をする際に花弁が飛ぶ比喩を使って説明する箇所があったのだけれど(後でその箇所を確認しようと思ったのだけれど見つけられなかった…多分あったと思う)、その中ではっきりと理解できない比喩のみのセリフがあったので、心の中で「わかるかい!」と突っ込んだそのすぐ後に具体的な説明描写へと続いていき「あ、説明するんだ」と思ったけれど(私の中では「すべてを説明してしまわないこと」を良しとする部分がある)、「いんよう!」で「聞いている人(専門分野外)が理解できるか」ということを意識しておられることなどを思い出して「なるほどなあ」と思ったり。

2部に入ると以前読んだ物語がでてきて「ここに繋がっていたのか」と驚く。「そっちへ行ってしまうのか」と予想外の展開だったし、文章の繋ぎ方など細かいところを言い出せば切りがないのだけれど、読後感は「もしやこれは世界ではなく人を描いた物語では?」「もしや吉本ばななや江國香織?」と思わせるくらい予想に反した構成や内容で、つまりとてもよかった。

ようさんは生命科学者などをしている場合ではないのかもしれない(はい、失礼な言葉です。でも最大級の賛辞です)。誰でも一生に1つは素晴らしい物語が描けると聞いたことがあるのでそれかもしれないけれど、そっちでもないような気もする。あるいはダヴィンチ的な全方向の才能発揮ルートでもよいかもしれないけれど。

そして私は思ったのだ。
もしようさんが、今回のような優しい、透明感(寒色系或いは暖色と寒色が重なり合ったグラデーション)のある物語ではなく、対極にあるような救いようのない、読後気持ちの悪さが残るようなそんな物語を描くとしたら、いったいどんな物語になるのだろう。
「読んでみたいな」と私の中の「悪い」部分が囁く。アゴタ・クリストフの『悪童日記』を読み、読後感は最悪だったけれど最後の『第三の嘘』まで読まずにはいられなかった(そして最後まで読後感は悪かった)あれとか。でも、また再び今回のような物語も読んでみたい気もするし、別ジャンルに分類されっるようなそんな物語も読んでみたいな、とも思う。

小説を書くってどういうことなのだろう。マスを相手に考えるスタンスもあるだろうとは思うけれど。
ああ、もうすぐ2日が終わる。予想より1日早く書き上げることができた。というか、最後まで読み、書き上げるまでは他のことが手につかなさそうだったので、さっさと諦めてよかった。これでやっと最後の鼎談を読める。

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