修士論文で、人生の中間期で生じるトランジションを扱った。
理由はシンプルで、私自身のテーマとも重なっていたからだった。
当時の私は、やりがいのある仕事と実践ができる会社を見つけ、興味のあることを学び、やってみたいと思うことはすべて実現をしたのだけれど、その次の目標を見つけられない、そんなタイミングだったと思う。
4年かけて修了をし、その頃には自分の中でもある程度整理ができていた。
「整理ができていた」というのは、行きたい方向性が定まったという意味ではなく、今あるものを手放す踏ん切りがついた、というほうが近い。次にやりたいことは分からないけれど、このままここに居続けると、きっとそれが足枷になるだろう、そういう思い。
積み重ねて来たものを手放すには勇気がいる。「損」を選択することになるからだ。
私の場合、「終わった」という感覚は自覚していたように思う。
周囲の流れと自分の流れと、ぴったり合っているときから少し外れる感じへ。
だけれでも物事の流れは、過去からの流れを通じて続いていく。意図しなければそのまま流れに乗っていき、自分の中に生まれた違和感は、脇に置くことになる。或いは忘れたり。
でもその違和感や疑問、「外れる感じ」は繰り返しやってくる。一過性のものではない。
そのあたりから段々と自覚をしてくるのだけれど、この「自覚」ははっきりとしたものではなく、意識を外れたところで自覚はしているだろうけれど、意識的には「ふとした疑問」くらいのレベルだった。分かってはいるのだけれど認めなくない、というのはこのことを指すのだろうか。
そして徐々に比率は変わっていき、「自覚」する状態となる。そして終わったことを受け入れ、今得ているものを、そのまま進めば得られるだろうものを諦めるのだ。
切りよく異動が発生し、慣れ親しんだ、愛着のある環境から離れたため、最後の決断は易しかった。「潔く」というのは好きな言葉で、会社も仕事内容も住む場所もすべて変わることになった。その決断をした直後にコロナが発生し、そこから先、次の仕事をしている間は凪の時間、そして今に繋がっていく。
「今」がいったいどんなときにあたるのか、よくわからない。
ただ、今回病気が分かる直前、ある道を歩いていたときに「生きている感覚がしないな」という実感が襲ってきて、ひどく疲れを感じたのを思ったのを覚えている。
日常に不満はない。余力もある。だけれども自分の中のエネルギーという表現が適切なのかどうなのか、きちんと表出できている感じたしない。そんな感覚だっただろうか。ひどくつまらない、そんな感覚を抱いていた。
そして今回告知を受けた後、最も考えていることは、「どう生きるか」。
私にとって「生きる」ということはどういうことなのだろう、と、問うことが多い。
よく耳にする「死ぬ前にしたいことのリストアップ」もしようと思ったけれど、重要なものは思い浮かばなかった。行きたかった場所にはいったし、やりたいこともやった。あとは日常を気持ちよく過ごしたいだけなので、悔やむのほど「やり残し」は、思い浮かぶものがなかったのだ。
敢えていうのであれば、それが「生きること」なのだろう。
(YouTube、Podcastでも話してみました。よろしければ御覧ください)
氷河期ですが「blog再び/変化の狭間で考えたこと」
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