今年、あと3つセミナー的なものをやることになりそうなので、資料として色々な本を読んでいる。
そんなところから自分の辿った道を振り返ると、また新たな発見があり面白い。
「空白の6ヶ月」と呼んでいるものをどういうふうに位置づけたらいいか、今まであまりはっきりとは分からなかった。あの6ヶ月とコロナ第一波が重なったのは偶然で、そこには本来意味はない。だけれども、あの時期足止めをされたことが空白を更に無力化、無色化したことは間違いなく、そしてそれは自分では意図して行うことができないタイプのものだった。自分も社会も初めて出会う環境や行動の制限に接し、結果的に「ただ毎日を生きている」という状態になったことは、目指したものではなく、どちらかというと「仕方なく」という感じに近い。そして本意ではないその時間の中で、結果的に最終的な到達点とも思われる時間を過ごしたというのは、皮肉というか不思議というか。
そして今また元の世界に戻ってきているわけだけれど、空白の6ヶ月は懐かしい記憶となり過去の遺物になったかと思いきや、実際は身の中に取り込まれていて、特に何かを判断するときに現れでてくることが多い。
このことに意味づけをし、ひとつのシナリオ的なものを描くことは可能で、それもある程度はやってみようと思うのだけれど、一方で、まったくの偶然で、意味などない、ということも、刻んでおきたい。