「哲学的な何か、あと数学とか」
ゲーテルの不完全性定理の理解の助けとして
ご紹介いただき、
数学と物理が苦手な私に、内容が理解できるかな、と思ったけれど、
この本の主役である、フェルマーの最終定理にまつわる物語に
引き込まれてしまった。
やることがあったので、まずいな〜と思ったのだけれど、
止まらず、途中で諦めました。いくところまでいってしまおう。
で、読み終わって、しばらくぼーっと。
その後、フェルマーはいったいなんてことをしてくれたんだ、
と思ったけれど、
フェルマーが公表したわけではないし、
でも、じゃあ、なんで息子はあんなことをしてしまったんだろう、とも思ったけれど、
息子もこんなことになるとは予想もしていなかったんじゃなかったようにも思うし。
「見えない景色をみたいという欲求」
というのは、誰もがもっているものなのだろうか?
多数の人はもっているのか、
それとも、少数の人しかもっていないのか。
大なり小なり、誰にもあるような気がするけれど、
それが自分の生きて行くうえでの根幹に関わるかどうかで考えると、
少数かもしれないな、と思う。
この本の中には、上にあるようなものが中心にある人もでてくれば、「誰もが辿り着いたことがない場所に行ってみたい」という欲求や、「誰もができなかったことをしてみたい」という欲求や、欲望や、いろいろなものがでてきているように思った。
そのどれもが、清濁合わせた人間らしく、また数学界全体の壮大な物語としてみると、人類の大きな挑戦、という気もするし。
「見えない景色を見てみたい」というのは、
「知りたい」という欲求のように思えるのだけれど、
この、「知りたい」という想いは、いったいどこからくるのだろうか。
わたしも小さな頃から、どちらかというと、知りたい欲求が強かったように思うけれど、何かきっかけがあったり、学習経験で、というのでも無いような気がする。
本能的な欲求に近い気がするのだけれど、
だけど、それが単なる欲求のひとつで終わるのか、
人生を賭けるほどにまで追い求めるものになるのか、
(あるいは、追い求めざるをえないのか)
その差は大きい。
「知る」「わかる」ということは、
どういうことなのだろうか。
そもそものスタートにあった、ゲーテルの不完全性定理は、
「ある矛盾のない数学体系の中に、肯定も否定もできない証明不可能な命題が存在する」という意味らしいけれど、
こうやって考えると、限界がある、つまり「できないことがある」「分からないことがある」ということは
人にとっては、どういう意味なのだろう。
「できたら」「分かって」しまったら、どうなってしまうのだろうか。
証明できること、証明しえないこと
言葉で語りえること、語り得ないこと
たとえば、書いていて思ったけれど、
欲求と欲望は、やはり使い分けてしまっていた。
言葉も変質していくけれど、
言葉にしかできない仕事っていうのも、あるのだろうな。
この方の、シリーズ1冊目の
「哲学的な何か、あと科学とか」も、
いつか読んでみたいな。
コメント