分人と再生と真たるものと

日々是好日(dairy)

平野啓一郎さんが、「分人」という概念を提唱されていて、
それはなるほど、そうだな、と思う。

分人主義

あるときから、一個の個人、分けられることのない個人、
唯一の個人、というのは、あるのだろうか、あっても特定ができないし、
それぞれの自分、すべて自分、というほうが、自分の感覚にフィットするようになった。

いっぽうで、唯一ではないものの、「真たる自分」というのも、なんだかいるような気もしている。

「真たる自分」とは、いまふうにいえば、ありのままの自分、本来の自分、あるがままの自分、ともいえるのかもしれないけれど、この言葉を使ってしまうと、ちょっとな、という気持ちもある。

ただ、実感値として、たしかにTPOに合わせて、そして環境によって生まれ出てくる自分がある(頑張っている感じもない)と感じる一方、初めての環境や人と相対するとき、以前よりも、より自然だと感じる自分に気がつくこともある。たとえば職場においてや、仕事をするときでも、スタイルが変わったな〜と思ったり。

それを仮に「真たる自分に近づいてきている現象」とする。
そうすると、真たる自分とは、より緊張感や固着が抜けている状態、といえるのだろうか。

同様の現象の別の見方として、「新たな自分が湧き出てくる」という見方もできるかもしれない。
どんどんと、自分の知らない自分が生まれでてくる。

少し前のものだったらまだしも、
かなり昔に生まれた自分を、今、再現することは、正直難しい。
もう、変わってしまったのだと思う。

そう考えると、横軸(時間軸水平線)では「分人」で、
縦軸(時間軸垂直線)では、「再生」で、と考えるといいのだろうか。
「再生」は、記憶や思考という遺伝子に運ばれる再生と、
遺伝子が置き換わる再生と、2種あるのかもしれない。

そしてその先に、「真たる自分」に近づくか、遠のくかは、また別の軸があるように思う。

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