私の悩みのひとつに、
「嫌だと思ったものは、本当に嫌だ」というのがある。
よく言えば、無駄がない、ともいえるのだけれど、
「食わず嫌い」「最初の印象に縛られすぎ」という側面もあって、
成長の機会を奪ってしまうこともある。
(うゎっ。成長って言葉を使ってしまった、、、)
思い返せば、小さい頃から、食事の偏食がすごかった。
小学生になる一番の悪夢は給食だったけれど、
案の定、昼休みはもちろん、そのあとの掃除の時間にまで
食べきれないときもあり、最後は牛乳瓶に何度も水を入れて
「流し込む」という方法で、鼻をつまんで食べて(飲んで)いた。
あるとき、考えた。
「好きなもの(欲しいもの)が手に入るけれど、同時に嫌いなものも我慢をしないといけない」場合と、
「嫌いなものを我慢しなくてもいいけれど、好きなもの(欲しいもの)もあきらめないといけない」場合、
どちらを選ぶか。
答えはシンプルで、後者だった。
好きなものや欲しいものは、諦められるけれど、
嫌いなもの、嫌なものを我慢するのは、耐えられない。
仏教的にみると、好きも嫌いも等しく、
渇愛によって生まれ、
執着すれば、苦のもとだ、となるけれど、
これは、私の人生を貫くテーマのひとつであり、
多少は丸くなったものの、傾向はそのままで。
嫌なもののために、好きなもの、欲しいものを
あっさりと手放してしまう(ように感じる)のだけれど。
人生も半ばとなり、折り返し地点だと思うと、
もう少し粘ってもいいのかもな、とも思うようになった。
嫌なものに対する向き合い方。
それを起こさせているものは何なのか。
とはいえ、不要なものに時間を取られない、という
シンプルさもあって、
まあ、ほどほどでいっか。
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