「祝辞」より

日々是好日(dairy)


さて、某大学の祝辞が話題になっていて、格差、差別、性差、等の論点があると思うけれど、一応「女」という性別に生まれ、認識し、生きてきた私の人生は、果たしていったいどんなものだったのだろうか、などと考えてみる。




「結婚」というものを、小さい頃から一度として、真に夢見たことがなかったわたしは、どこが欠落しているのだろうか。何か悪い思い出があるわけでもない。両親は、細かな誤差はあるかもしれないけれど、まあ普通の家庭だし、同じ家庭環境で育った姉は、女性が辿る標準的な人生を送っている。とはいえ、恋愛はどうか、というと、それなりに好きなので、「結婚」という枠組みというか、制度に、それがもたらす心理的な安定に、それが見せてくれる何かに、その中で築き上げて行くものに、体験していくものに、単に惹かれなかった、というだけかもしれない。




そんなニーズをもった私が、性差による区別ではなく差別を感じてきたかというと、どうなのだろう。いい思いもたくさんしてきたし、もちろんそうじゃない場合もあった。
あからさまな差別だな、と思ったのは、新卒での就職活動のとき、当時は、就職情報誌のようなものが自宅に送られてきて、それを使って説明会にエントリーをしていたのだけれど、男性と女性では、送られてくる冊子数に圧倒的な差があった(つまり説明会に参加できる企業の差)ときくらいだろうか。
仕事をはじめると、どちらかというと有利なことのほうが多いようにも感じていた。「男性は大変だな」と、漠然と思っていた印象がある。性差を本当に語ろうとするならば、自身と逆の性を知らないことには話せないような気がする。生まれ変わった後。でも、来世も「女」がいいな。




さて、某祝辞に戻るならば、「がんばれば報われる」という思いを抱けるのは、自分の努力ではなく、育った環境にこそ依るものが大きいということ。実際のところは、個人、環境、双方は独立しておらず、複雑なネットワークをもとに事象が生成されるとするならば、どちらも正ともいえるし、偽ともいえるように思うけれど、メッセージでは、「個として世界に表したい何か」に偏らせて言葉を選ぶことは当然なので、「自分が勝ち抜くためだけに使わないで」への掛詞のようなものなのだろうか。




4月。もう花粉の症状は落ち着き、マスクも必要なくなった。
初夏へ向かうこれからの季節が、一年で一番好きな季節なのだけれど、
こころは、あまり晴れやかではない。
それくらいで、ちょうどいいのかもしれない。





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