学びは何のため

日々是好日(dairy)


「福智院」という、高野山唯一の天然温泉があるらしい宿坊に、「最後だから」と奮発して泊まってみた。
阿吽の像のような、2体の像があった。右に龍を身に巻いた猿、左には鬼?珍しいな、いい身体してるな、と思い、写真におさめる。




新調されたケーブルカー

























高野山大学では、大学、大学院、別科がまとまって、卒業式と修了式を行う。送辞や答辞は、大学生の代表の方がしておられたのだけれど、少ない学生数だからこそ生まれてきた言葉たちだったように思えた。ちょっとだけ懐かしく、羨ましい。高野山大学は、お世辞にいっても偏差値的には高いとはいえないけれど、この大学にしかないだろう独特な魅力がある。

まず、集まる人が多様を極めている。年齢でいえば、下は18歳から、上は70代くらいまでおられるかもしれない。そして知能の高低差もかなり大きいらしい。また、僧侶になる人も、なった人も、在家の人も、真言宗門徒でない人もいる(ちなにに私も真言宗ではない)。それだけ、学びたいと思う人に、広く開かれている場所だといえるだろう。また、日本で唯一真言密教を学べる場所で、大学の歴史も古く、ここにしか所蔵されていない貴重な文献がたくさんある。高野山大学の図書館は、建物も素晴らしいが、置いてある書籍のラインナップも、初めて見た人はきっと驚くのではないだろうか。わたしはしばらく興奮がおさまらなかった記憶がある。仏典だけではない。今はもう、古本屋さんでもなかなかお目にかかれないような、貴重な本が何気なくたくさん置いてあった。のんびりしていて、押し付けがましくもない。日常に宗教があり、その共通の規範が下支えになって大学が運営されている。

そして卒業、修了式。












壇上にひとり一人上がって、学位を受け取るらしい。初見で、事前説明もなく、きちんと対応できるかしら、とドキドキ。いろいろなものを読み取らなければならない。

挨拶を、いつ、どこで、誰にするか、が、やはり一番の関心事だろう。儀式は様式があるとはいえ、そこには必ず本来の意味や目的があるはず。それを理解せず型だけを真似してしまうと、在り方を間違ってしまう恐れがある。上がる前に一礼、上がって先生に一礼、そこあと向きを変えて一礼、そして学長の前で一礼、受け取って一礼、帰るほうの席にいる人に一礼(来賓の方々だったことを後で知る)、壇上から降りた後は振り向いて一礼はしない。なるほど。

ここでの問題は、3番目の「礼」である。これはいったい何を意味しているものなのか。最初は学長にしているように見えた。でもその後再度行うではないか。ということは、先生方の反対の席に座っている来賓の方々への挨拶なのだろうか。それであれば受け取ったあと、壇上から降りる前に、来賓の方だけでなく先生方にも挨拶をしないとおかしいのではないだろうか。
手を合わせている人もいる。頭をさげているだけの人もいる。いったい何の「礼」なんだ。

そして気づいた。これは、中央に掲げられているお大師様への「礼」であった。なるほど、そうだったのか。分かる。確かに。
すべての動作と意味理解ができ、一連の流れが整合性をもって繋がった。これで「動ける」。

一方で、壇上で繰り広げられる授与式を見ながら、別のことも考えていた。
悟りには4つの段階があるといわれており、その第一段階の「預流」は、諸行無常の法眼が開くことで、有身見、戒禁取見、疑という束縛がなくなっていくプロセスを指す。この「戒禁取見」は宗教的儀礼や社会文化的慣習への囚われなのだけれど、まさしく「今日」。

わたしは、服装とか、輪袈裟はしたほうがいいのか、とか、適切なタイミングで礼をしようと試みたり、靴を持っていくのを忘れて慌てて途中で買い足したりなど、執着はしていなかったと思うけれど、一応は「基本線」というのを押さえようとしていた。だけど、服装だけでみても、学生はスーツか袈裟、袴だったけれど、社会人の人は本当に自由で、なんと輪袈裟の上にストールを巻いている人もいて、ブーツの人も、10センチくらいのピンヒールの人もいて、カラフルなジャケットも、とても自由だった。輪袈裟がない人も、もちろん。

そして、学長はじめ先生方、来賓方もとてもリラックスされていたように思った。読み間違えたり、質問したり、とてもマイペース。指導教授は、なぜかいつも通りの黄色っぽいジャケットで、「せめてダークカラーで!」と心の中で思ったけれど、そう、わたしが囚われていたのだ。それが、愛すべき先生であり、高野山であった。

この辺りまでくると、気負いもなく、ただただ有難い機会を頂戴する、という気持ちになる。
今日の日は、見守った人にとっては、祝福を伝え、幸多き人生をと送り出す日であり、学んだものにとっては感謝を伝える日であり、だからこその「礼」なのだ。

お隣の席の60代か70代くらいの方が、「6年かかって院を卒業できた」「これからも科目履修で学ぶ」とおっしゃっており、驚いた。これこそだな、と。素晴らしき先達の在り方に、わたしも、少しでもより良く生きるため、学び続けていきたいと思ったのだった。











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