「正しい」知識

日々是好日(dairy)


こちらの記事を読んだ。

ヤンデル先生のことを初めて知ったのはいつだろう。そんなに昔ではない。数年前、ツイッターだったような気がするけれど。ツイキャスか何かでお話をされているのを聞いたとき、「お医者様でここまで話が上手な人がいるとは」と驚き、聞き入ってしまったことを覚えている。

ツイッターでも面白い話が多くて、「そういったことが好きな方なんだろうな」くらいに考えていたのだけれど、ぼんやりと、「何がこの人を、ここまでの使命感(らしきもの)に駆り立てるのだろう」とも思っていた。ただこのあたりは、ヤンデル先生の発言から、私のフィルターを通して生まれたものなので、根拠はまったくないし、たぶん、本当のところは、そんなに簡単に語りつくせるようなものではないだろう。

ヤンデル先生のブログ(タイトルがいい!)は、たまに読むけれど、とても面白い。医療関係の記事のときはほとんど読まない(ごめんなさい。。。)けれど、1日置きに現れる普通の記事は、タイトルに興味があったり、時間があったりすると、見にいく。何が私の琴線に触れるのか、と考えたことがあったのだけれど、はっきりとはわからない。たぶん、「日常系ブログ」がもともと好きであり、そのうえで文章の進め方がわかりやすく、過度にもなりすぎず、テンポよく読めたうえに、自己に対する批判的な視点もあり、オチもあって・・・みたいなところかもしれない。

「いんよう」も好きで、だいたい聞いているけれど、ようさんも含め、お二人とも話の幅が広いなーと感心してしまう。私は興味のない話は反応が乏しくなってしまうが、「きっとすべてが興味ある話ではないだろう」想定で考えると、ヤンデル先生は、何か自分との繋がりを見つけてお話をしておられるように感じられ、よくここまで会話が続くものだ、と思ってしまう(ようさんは、割とはっきりしているように思うけれど)。

noteは、ほとんど読んでいなかったのだけれど、こちらの記事は、なんとなく目にとまり、読んでみた。紹介されている書籍もほとんど読んでいないし、意図を取り違えている可能性も多分にある。うまくはまとまらないのだけれど、書いてみたくなった。

たまたま、今している仕事の関係で、精神科、心療内科の医師の方とはやりとりをする機会はある。今回テーマになっている、「がん」や「身体の治療」という視点からみると少しずれるのだけれど、「そこに患者は何を求めているのか」という視点においては、人間の仕組みや構造、実際の選択や行動などから人間理解をする意味において、繋がりを感じた。

「治療と仕事の両立支援」についても関わることがあり、ヤンデル先生が言及している医療の進歩による変化(両立支援の場合は、個人においては生活、治療と仕事との付き合い方、企業においては治療をしながら働き続ける人との雇用の在り方)は、わかりやすく数値で示されている為、実感している。

一方で、数年前、仏教系の大学院に進学し、卒業をする過程において、「仏教」「宗教」と、現代の繋がりについては、考えるところがあった。個人としては、純粋に仏教の起源である「ブッダ」の生きた道筋が、シンパシーを感じるのだけれど、そこから離れ、「仏教」や「宗教」が、なぜ変遷を続けながらいつの世にも存在し、これからもおそらく無くならないだろうことを考えると、ここには「(多くの)人の求めるもの一つ」「救われる要素のひとつ」があるだろうと推測できる。そしてこのあたりには、「とんでも医療(?)」との繋がりもあるだろう。

「患者に寄り添う視点」とは、ここでは、「物語」「ナラティヴ」「個別性」を重視する視点として、話をされているのかな、と思った。個人的には、「物語」「ナラティヴ」も、最近は比重が大きくなりすぎているような感じもして、そろそろこれを打ち破るものはないだろうかと感じているのだけれど、現代では、このあたりの視点から考えるのは、受け入れられやすいのかもしれない。実際、私自身も好きだし、しているし。

そして、先日自分ごととして、某大学病院に検査に行ってきた。結果的に何も問題はなかったのだけれど、その中でのやりとりにも、思うところもあった。

そんな長すぎる背景をなぜ書いたかといえば、何を書くかがまとまっていないからである。自分自身を今、整理している途中。

・医療者が「患者にとってよい(=医師として伝えたい)」と思うものと、患者自身が求めるもの
・医療者は、情報発信においてどこまでを目指すべきか
・どのような世界の在り方が理想的か

『野の医者は笑う』
東畑開人さんの、「居るのはつらいよ」は、ヤンデル先生も紹介されているし、「いんよう」でもテーマに上がっていたが、個人的には、一つ前のこの本の衝撃のほうが強かった。ここでは、主人公(正統派心理士)が、セラピーにおける「とんでも」のレッテルが張られやすい「占い」「民間信仰」「その他あやしさ満載のセラピー」(世間から、「スピリチュアル」と揶揄、否定言説で語られやすいもの)の研究をする中で見えてきたものが書かれているのだけれど、それぞれの存在意義を探っていた。私自身、「占い」に否定的だった20代を経て、自分が西洋占星術のライターをするくらいには勉強をしたのだけれど、それを話のネタにすることはあっても、あまり公にその中心ポジションに立たないのは、清濁混合で、伝える場所や相手を考えないと、(自分で勝手に)残念な気持ちになってしまうことがあるからだ。東畑さんの視点は、私の「スピリチュアル(に類すると「世間」から判別されるもの)」に関する視点と100%一致するものではないけれど、「受け手にとって役に立つか(と実感できるか)」「受けてに変化が生じるか(たとえ短期的であっても)」「受け手の満足度」という視点では、同様のものだったし、その「限界」も見つめつつ、「存在意義」にも目を向けた点、そしてそれが、主人公の人生の中のエピソードとして、わかりやすく、おもしろくまとめられていた為、「ひとつの物語」としてとても楽しく読み進め、読み終えることができた。

とはいえ、生死が関係していたり、障害や不便さなど、自分の生活に実際的に大きな(悪い意味での)変化を生じさせるような事象と、そこまでではないものとは、分けて考える必要はあるだろう。

たとえば私は病院に行くのが好きではない。だが、生死に関わりそうだったり、生活に大きな影響を及ぼす可能性がある場合は、真っ先に病院に行く。医師には自分の身体がどんな状態なのか、医療的な知識において正確に教えてほしいし、複数の選択肢を、そのメリットデメリットとともに説明をしてくれたら完璧だ。標準的な治療や、医師の個人的な意見は教えてほしいし、意見交換はしたいが、何を選ぶかの判断は私にさせてほしい。その選択について、たとえ医師の判断とは異なったとしても、その判断の中で最良と思える関わりをしていただければ嬉しいが、医師もひとりの人間であり、「正しさ」「適切さ」の信念はあるだろうから、そうでなくても仕方がない。寄り添ってくれたら嬉しいが、「寄り添ってくれるが知識の範囲が狭い医師」と、「寄り添ってくれないが、知識の幅が広い医師」ならば、後者を選ぶ(ただし、風邪とか、日常に大した影響を及ぼさない病気は、前者を選ぶ)。

生死に関する場合、「あやしい」ものに絶対に頼らないとは言い切れないが、おそらく、「値が安い(或いは値が無い)」ものであれば試しにやってみるかもしれないが、高額なものは避けるだろう。これは、その背後にある仕組みを疑っていると同時に、「分かり得ないもの」の可能性も、排除をしていないからだと思う。ここを「分かり得ないもの(事実ベース)」と捉えるか、「ナラティブ(価値観や信念等)」と捉えるかは、実は大きな差のような気もするが、お互いが思いあっていれば、現実的にはそれほど大きな実害は発生しないかもしれない。

そしてこれは、自分ごとではなく、家族や近しい関係の人の場合だと大きく変わってくる。たとえば、もし今私が生死の問題を抱えている場合、おそらく両親は、自分ごとだと医療に全面的に任せたとしても、私が対象になった場合は、医療+なにか、をするだろう。神仏への祈りは当たり前、体によさそうな食べ物や、ほぼ無理だとは思っていても、少しの可能性があるならば、と、いろいろなサプリメントを買ってしまうかもしれない。「自分が身代わりになるので、代わりにあの子の命を」的なやつもやるかもしれない。そしてそれは、立場が逆になってもほぼ同じだ(サプリメントは、安かったら買うかも)。「ほぼ無理だ(関係ない)とはわかっていても」、何かせずにはいられない、わずかな可能性にかけてみたい(かけざるを得ない)という気持ち。

だがこれは、私の場合の論法で、一定数はいると思うが、多数派か、といわれると、うーん。。。

たとえばけいゆうセンセイの記事で、医師と患者の目標到達地点に関する言及があったが、なるほどなあ、と思った。確かに「もともと1年未満だったものが2年半に」なることは、実際体験してみないとわからないが、「命の期限を明示される」という点では、大差ないだろう。とはいっても、生きる期間が2倍以上になるので、その点では以前とは異なる。「命の期限」を明示されたとき、ナラティヴはより濃くなる。医療的な正しさが、本人のナラティヴとうまく融合していればいいが、ここで逆転する可能性は大いにある。

そう考えると、抜本的な課題解決は(この言葉自体が・・・的な感じはするが)、現代の人間の、いや、過去からずっと?、死に対する耐性や捉え方、人生の期限への姿勢、「いつまでも続くこの日常」や、そのあたりなのかもしれない。だから宗教があり文化があったのだろうが、これからの社会はどうなるのか。

先日の大学病院の検査では、首元に2つの異常を感じ(1つは既に消失済みだったが)、行ってみた。仕事をしている関係で、「何かあったときに、再度病院に行きなおさなくていい」大学病院にした。時間を重視する、効率を重視する感覚だ。だが実際、なんども病院に行きなおさないといけない状況になってしまうと、大きな異変を感じない限りは、仕事を優先してしまうだろう。検査結果は何も異常がなく、それ自体は喜ばしいことなのだけれど、「では、この残る一つの症状は?」となり、先生も、「今できる検査はここまで」「わかるのはここまで」と少し困ったように言っておられ、「それもそうだろうなあ」と思った。もし、「寄り添い姿勢」で考えるならば、私の不安にしばらく「聴く」目的で耳を傾ける、とか、あるかもしれないけれど、そしてそれは私も少し思ったけれど、それはプラスアルファのものであり、個人のニーズに過ぎない。先生は、それをしたければしたらいいし、しようと思わなければ、しなくてもよいと思うのだ。そして私は、別の病院を選ぶこともできる(総合満足度が高かったので、またこの先生に診てもらいたいけれど)。

すべての役割を、同時にこなすことはできない。そのために、この世界に様々なひとがいる。医療者優位の風潮も、患者優位の風潮も、わたしにはあまりしっくりこない。だけれども、それらが均衡を保つのではなく、多少の偏りをもって行きつ戻りつすることは、実際の世界のありようだとも思っているので、どちらか一方が過度になりすぎなければいいな、というのが実感。




そして、自分が治せる病気以外で患者の相談にのるのは、正直、心がつらい。今日あったばかりの他人が明日死ぬとしても悲しみはやってくる。できれば、今の科学で治る人とだけ付き合っていたい……。情報発信についても、伝わらないのは知っているけれど、そもそも、正しさを書くだけでもぼくらはある程度認められるし、認められる方で生きていきたい。医者に人生全てを背負わせないでくれ。医者が役に立つ場面は、人生の一部でしかないし、医師免許を使うぼくらは、分人のひとつでしかないし、医師免許の効力が及ぶのは、あなたの脳内パッチワークの一部でしかないはずなんだ。




笑ってしまった。なんて正直な人なんだ。そして続く




……でもそんな言い訳ばかりじゃ、だめだろう。

医者はもう少し殴られた方がいい。外部に届いていませんでしたね、情報発信がへたですね。これじゃ届きませんよね。




人にできることに限界はありますよね。
みんな、自分ができることを一生懸命すればいいですよ。

まさしくそう、なのだけれど、そこに留まるか、たとえ思ったようにはならない、と分かっていても、一歩だけでも超えていこうとするか、そしてそれらはすべて「ナラティヴ」に回収されるかもしれないけれど、人の尊いところだな、とも思ったり。

科学・医療・事実・エビデンス、般化できるもの
物語、ナラティブ、個別性、主観、無根拠、分かり得ぬもの

前者も、そこに正しさ、適切さ、などの価値判断が加わると、ひとつのナラティヴになってしまうので、2つのナラティヴのせめぎ合い、と考えることもできるかもしれない。

それらが、「相容れない」ところから出発し、融合の過程がある一方、「相容れなさ」に向かっていく軸があっても、いいように思う。個人的には「中途半端」なのが嫌だけれど、中途半端にもそれなりの意義があるし、難しい。。。

ああ、支離滅裂。
尾っぽを見るころには、頭を忘れている・・・みたいな(スイミー?)

まあ、いいか。
今日は、「宝珠」を作ってみました。








願いを叶える如意宝珠は、欲の塊かもしれないし、祈りの源泉なのかもしれない。偶然だけれど、今回のテーマとの近しさを感じたり。

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