「哲学ウォーク」に参加をして

日々是好日(dairy)
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前回の投稿で、WEBワークショップへの自分の耐性の無さを記載したのだけれど、今日は自分にぴったりのWEBでの取り組み(?)に出会った。そう、その名は「哲学ウォーク」。

初めて耳にする名前だったのだけれど、哲学ウォークとは、ピーターハーテローさんという哲学者が考案したワークだそうだ。
https://ci.nii.ac.jp/naid/120005695497

今日参加をしたのは上記を「松川えりさん(カフェフィロ副代表)」がアレンジされたもので、この御時世、対面で集まることが難しい為、FBページを活用して参加者が投稿や書き込みをしながら取り組む内容のものだったのだけれど、とても、とても面白かった。簡単な流れを振り返ってみる。

・前日夜に、進行役の方がランダムに選んだ「哲学者の言葉」が送られてくる
・当日の朝から昼の間にその言葉にぴったりと合う場所を探し、①写真撮影、②届いた哲学者の言葉、③その場所を選んだ理由、を投稿。
・昼~夕方、自分の投稿の前後3名の方の投稿に対して、一文質問をコメントする(反論、感想はNG)
・夕方~夜、自分に寄せられた質問のうち、「どれか一つ」(ここが大切)を選び、返答をする。
・お互いの回答を読んで楽しむ

さて、私に届いたのは以下の言葉だった。

「成長には、必ず抵抗が伴うものだ。」(デューイ)

ふむ。シンプルな言葉。だけれどもまだ具体的なイメージは見えてこない…。ということで、とりあえず寝る。明日考えよう。

目が覚めて、いそいそと朝の身づくろいと食事をした後、9時頃に家を出る。チャンスはいつやってくるか(来ないかもしれない)ので、早め早めにアクションをとる。まずは自宅マンション周辺をうろうろとする。一つ見つけた。アスファルトから出る雑草。




アスファルトから顔を出す雑草




一応写真を撮る。この案は、なんとなく頭の中にあったのだけれど、でもしっくりこない部分がある。「抵抗している」というよりは、「うまくすり抜けていっている」ように見える。でもまあ一案として。

公道に出る。歩く。探す。
「アスファルトから顔をのぞかせる植物」は何度も目にするけれど、それ以外に良きものが見つからない。

しばらく歩くと神社に出会った。中に入る。参拝をする。
「ここにはいろいろあるだろう」と物色するも(罰当たり)、なかなか見つからない。「一見関係なさそうなものからコラボレーションが生まれるかも」作戦を思いつき、無関係の写真を撮る。

何もインスピレーションが降りてこない。
諦めて別の場所に行こうと鳥居に向かうと、鯉に餌をあげている親子がいた。一緒に鯉を見る。金の鯉がいる。白い鯉がいる。グレーの鯉がいる。

「鯉?」

そしてここは龍王社。何かが頭の片隅に引っかかる。なんだ?
そう、「鯉が龍になるやつ(登竜門)だ!」。
ぴぴーん。
そして以下を投稿。

■その場所の写真




(龍王社境内の沼にいる鯉)




■自分に届いた哲学者の言葉
「成長には、必ず抵抗が伴うものだ。」(デューイ)


■その場所を選んだ理由
龍門を登るべくこの地にやってきた金鯉は、参拝客の撒く餌の為、今はまだその時を掴めず。しかし・・・、必ずや滝を昇り、龍となるのだ。
(安住に流されるのも良い人生だと思ってしまう自分と鯉とを重ね合わせ)


理由を書くのには少し時間がかかった。ひとつひとつ言葉を確認していき、少しでもしっくりと来ないところはもう一度考え直す。そう、この時この瞬間のベストフィットを探る。

ここまで投稿できるとホッとする。あとは他の方の投稿を眺めたり、時間がきたら質問コメントを考えて投稿をしたけれど、これはとても好きな作業。「うーん、どんな質問がいいだろう?」。頭をひねるのも楽しい。

さて、最後のターム。時間がきたら「質問を一つ選び」、回答をする。最初は、「回答しにくい質問」を選ぼうと思い考えてみたのだけれど、一応全員分回答ができたので、再度見直し、なんとなく「これ」と思うものを探してみる。選んだのはこちらの質問。

「鯉は龍になぜなりたいのでしょうか?」

ふむ。どう書こう。ぶっつけ本番でまずは書き始める。書きながら考える。フィットする言葉を探していく。

話は変わるけれど、「まずやってみる」「やってみながら考えていく」というのは私のひとつのパターンなんだろうな、と思う。分かっていたことであるけれど、端々にそれが現れる。

ここにも少し時間がかかり、でも完成。以下が返答。

「鯉の自分も龍の自分も、価値としては同じ。だけれども、折角この世に生を受け、「まだ見ぬ自分」の姿に出会える可能性があるのならば、今の己を脇に置き、試してみることこそが人生を十全に生きること(笑)」

今回のワーク、ちょっと遊び心を出して創作チックに取り組んでみた。
すべてのタームが終わり振り返ってみると、いくつか気づいたこと、考えたことあり。

・「龍」を、「可能性」であり、「まだ見ぬ自分」のメタファーとして捉えていること(当初から考えていたわけでなく、最後にそのように現れ出た)
・元の論文でも「歩く」がひとつのキーコンセプトとして記載されているが、「身体性」や「行動」、「場」がひとつのプロセスとして入ってくることは(私にとっての)利点であり、前回の投稿にあるような(私にとっての)弊害が緩和される
・元の論文のフレームにあるコンセプトづくりは、今回のワークでは言語化されていなかったが、結果的に現れ出てくるものもある
(例えば今回の私のコンセプトは、「『可能性』に開くこと」とか?)
・ナラティヴ・アプローチとの親和性は高そう。随所にポイントがありそうな(写真の場面を選ぶこと、理由を言語化すること、問いを選ぶこと、回答すること、随所に「その人」が現れ出る。場合によってはオルタナティブストーリーが生まれることも)。
その場合、「哲学者の言葉」はどのような役割をもっていると表現できるだろうか。そのときの自分の枠「外」にある言葉によって引き出されるもの。自ナラティヴの探索や言語化へ向かう道。
・一方で、哲学とナラティヴの相違点(あるいは視点の置き方の比重の違い)を言語化すると、どういったものになるだろう。両者は重なり合う部分もあるが、一致はしていない。
・哲学ウォークでいう「コンセプト」と、ナラティブの「名づけ(だったかな?)」の類似点と相違点。

長くなってしまった・・・。
時間がたつと、感想もいろいろと変わってくるのかもしれないけれど、まずはホットな気持ちを文章に。

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